大判例

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東京高等裁判所 昭和55年(ネ)2681号・昭55年(ネ)1687号 判決

1 本件土地は、明治の早い時期には、当時の公的帳簿において「斃馬捨場九畝一八歩村中持、地主総代香取忠右衛門」とされており、もとは全体として村ないし部落の住民のための農耕馬の埋葬場所であったと推認されるが、その目的のための用地は、後に本件土地のうち西北方に突き出た、俗に「そうまんど」といわれる草や灌木の生えた細長い部分に限られるようになり、その余の部分は、一部に既に防風林等の用をなす樹木が存在していたので、明治二六年ころ土地台帳に山林九畝一八歩大字惣深持(後に「草深持」)として登録され、同年六月一日有租地となった。これによれば、本件土地全体は、元来、大字惣深(草深)の住民の総有に属し、その共同の用に供されていたと認められる。

2 控訴人の祖父(清水誠の父)荒木元之助は、同大字の有力者であったが、同人及びその事実上の婦であった控訴人の先々代清水つねは、明治時代から本件土地を、この地方で俗に「山まで」と称する管理をしており、つねは、本件土地のうち右の「そうまんど」の部分を除くその余の部分を一部畑として事実上耕作していた。控訴人の父で清水つねの養子の清水誠(明治二八年五月五日生、大正四年につねと養子縁組)が昭和四年五月五日同女を家督相続してからは、同人が右管理を引継いだが、右その余の部分については、畑作をやめて植林し、堆肥作りのための下草刈りや、毎年冬に枯枝拾いなどの作業を公然とするようになった。そして、昭和一四、五年ころには植林した樹木を売却等のために伐採し、右伐採跡地に約二五〇本の苗木を植えて育て、他方枯枝、下草の利用を続けていた。更に、昭和三四年春には控訴人の長女の出生を祝って杉苗約一〇〇本を植える等、単独利用をし、昭和三六年には東京電力株式会社が本件土地上に電線を架設するため伐採した樹木の補償金を同社から受領した(地権者としての補償は受けていない。)。

3 大字草深は、内川、七軒家、草深上、石道台、寺台、柏木台の六部落によって構成されているが、その部落の住民は本件土地のうち「そうまんど」の部分を農耕馬の埋葬場所として共同に利用し、戦後農耕馬が用いられなくなってからは、ごみ捨て場として利用していたが、右「そうまんど」を除くその余の部分について、右のように清水家が単独で利用していることに異議をさしはさむことはなかった。なお、本件土地は、昭和三五年法律第一四号による登記用紙の表題部の新設作業に基づき、所有者大字惣深持として登記されている。<中略>

以上の事実によれば、清水誠は、養母つねを家督相続した昭和四年五月五日以降二〇年間平穏かつ公然に前記その余の部分を占有して来たものと認めるのが相当であるが、いわゆる「そうまんど」の部分については占有をしていたとは認められない。

二 控訴人は、誠の右占有が所有の意思をもってしたもの(自主占有)であり、本件土地を時効取得した旨主張するので、次に検討する。

≪証拠≫によれば、次の事実が認められる。

1 清水誠は、昭和四年五月五日清水つねを家督相続し、同女の所有していた印西町草深字天王脇一一四九番宅地二七五坪(九〇九・〇九平方メートル)及び同地上の木造草葺平家建居宅一棟(家屋番号一、一四九番、床面積九九・一七平方メートル)については、いずれも右の家督相続を原因として昭和八年一二月二八日所有権移転登記を経由したにもかかわらず、本件土地については右のような所有権移転登記をしていないことはもちろん、何人にも所有権移転登記の請求をしたことがなく、また、本件土地につき後に非課税措置がとられる以前、公租公課を一切納付していない(部落民が負担して納付していたと推認される。)。

2 清水誠は、昭和二六年四月二四日から昭和二九年一一月三〇日まで船穂村(当時)議会議員、昭和二九年一二月一日から昭和三〇年四月二九日まで印西町議会議員を歴任し、当然本件土地が被控訴人の所有として土地台帳に登録されている事実その他本件土地の来歴を了知し得る立場にありながら、被控訴人の代表者に対して本件土地の所有権が自己に帰属することを主張したことがない。

3 清水誠は、二男今村祐次や四女の控訴人から本件土地の登記につき問いただされたにもかかわらず、これにつき明確な説明をすることなく、「そんなことは、心配するな。」など要領を得ない返答を繰り返していた。

4 以上認定の事実に、前記(一)記載の事実をあわせて考えると、本件土地は、大字惣深(草深)の共益地であったところ、明治時代に荒木元之助、清水つねが村ないし右大字から管理をゆだねられ、以来清水家が代々管理(他主占有)をして来たものと認めるのが相当である。もっとも、清水誠の代になると、前記「そうまんど」を除くその余の部分については、植林、伐採による私益的利用面が強くなり、管理の域を逸脱したと見られるが、部落民としては、植林自体は部落のためにもなり、有力者が負担を伴う管理をしていることに格別異議もなく、そのうち農村の状況の変化に伴い、特に農耕馬が用いられなくなり、本件土地の共益性への関心も薄れた戦後には、事実上放任状態となって、清水家の単独利用の様相になったにすぎないとみるべきである。そうすると、清水誠の本件土地の前記部分に対する占有は、客観的にみても、以前からの管理の延長と認めるのが相当であって、植林、伐採により、大字惣深(草深)に対して所有意思を表示し、又は新権原(誠の相続自体が新権原といえないことは、明らかである。)による自主占有を開始したとはいえず、結局、他主占有から自主占有への変更があったと認めることはできない。

(小堀 吉野 山崎)

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